山中城の歴史と戦い 障子堀や交通アクセスについても
山中城は静岡県三島市にある城です。
1567年頃、北条氏康によって築城されたといわれています。
今川義元が桶狭間の合戦で命を落とした後、駿河国に侵攻した甲斐の武田氏の攻撃に備え、また、好機があれば駿河に攻め込むための前線基地としての役割を持っていたものと思われます。
武田氏が滅亡した後、織田信長の勢力を受け継いだ豊臣秀吉と後北条氏の関係が緊張を高めるにつれて、山中城は東海道を下って侵攻してくるであろう豊臣方から本拠である小田原城を守るためにその存在が重要視されることとなります。
そこで1587年頃、新たに岱崎出丸を築いて守りが固められることとなります。
山中城の戦い
このような状況の中、ついに1590年、豊臣秀吉の号令により、各地の大名からなる大軍が小田原城を目指して侵攻することになります。
こうして山中城は、東海道を下ってくる豊臣方主力軍の攻撃を受けることになりました。
山中城を攻める豊臣方は、豊臣秀次以下35,000名であったといわれており、秀吉子飼いの大名である中村一氏、一柳直末、山内一豊、堀尾吉晴、田中吉政に加えて、徳川家康の家臣である本多忠勝、榊原康政、大久保忠世、鳥居元忠が攻撃に加わりました。
これに対して山中城を守る北条方は、北条氏勝、松田康長、間宮康俊以下4,000名であったといわれています。
戦いは早朝から始まり、一柳直末が命を落とすほどの激戦となりましたが、徳川勢が西の丸を落とすと守将である北条氏勝が城を脱出し、ほどなくして山中城は落城することとなります。
この合戦で本丸一番乗りの手柄を立てたのが、数々の大名の間を渡り歩いて戦国の世を生きた渡辺勘兵衛で、のちに彼が執筆した回想記でこの時の詳しい状況を知ることができます。
史跡指定され多数の遺構が保存されることに
この戦いの後、山中城は廃城となり、その存在は長い間忘れ去られることとなります。
しかし、1930年、一柳直末の子孫である一柳貞吉によって山中城の史跡指定が計画され、1934年に史跡指定されることになりました。
その後、国道1号線山中バイパスが建設されることになったこともあり、1972年から22年間に渡って山中城跡の調査と環境整備が進められてきました。
現在、山中城跡は公園として整備され、曲輪や空堀、土塁などが多く残されています。
特に、後北条氏の城の特徴である畝堀や障子堀が現存する貴重な城でもあります。
山中城跡へはJR・伊豆箱根鉄道三島駅からバスで30分程度で行くことができます。
山中城は日本100名城にも指定されている、北条氏の築城技術を目にすることができる貴重な城です。
城好きならばぜひ一度は訪れておきたい城だといえるでしょう。