小谷城の歴史と戦い 石垣や交通アクセスについても

小谷城は織田信長の妹であるお市の方が嫁いだ戦国大名浅井氏の居城として有名です。
滋賀県長浜市にありJR北陸本線河毛駅が最寄り駅となります。

小谷城の歴史

浅井氏はもともと京極佐々木氏の家臣であり近江国浅井郡の国人領主でしたが、1523年に京極氏の重臣である上坂氏を同じく国人領主である浅見氏などと協力して失脚させたのち、浅見氏も追放してその力を強めていきます。

小谷城が築かれたのはこの頃であるといわれています。
この当時の小谷城の規模はそれほど大きなものではなかったと思われ、1525年に浅井亮政と南近江の守護である六角氏との間で合戦が行われますが、この時、亮政は小谷城を捨てて越前の朝倉氏の元に逃亡しています。

以後、浅井氏は、一時期六角氏の傘下となったこともありましたが、それ以外は滅亡まで朝倉氏との強い関係を保ち続けることとなります。
二代目・久政、三代目・長政と時を経るにつれて、浅井氏の力は強大となり、ついには京極氏に代わって北近江を支配することになったのでした。

そのような浅井氏の強大化に伴って小谷城も拡張されることになります。
小谷城は標高約495mの小谷山から南に延びる尾根上に築かれていますが、北側の曲輪と南側の曲輪が大堀切という空堀で二つに分けられているのが特徴です。

標高の高い大堀切から北側の曲輪が築城時からあるもので、大堀切から南側が後から築かれたものであるようです。

小谷城の石垣

小谷城の別な特徴として、戦国期の城には珍しい石垣が築かれていたということも挙げられます。

浅井久政・長政の時代で居城に石垣を築くことができたのは、南近江の守護である六角氏といった公的権力を持った大名であるとされていました。
小谷城には山上の「大広間」と呼ばれている曲輪にある黒金門や、各曲輪の虎口部分に石垣が築かれています。

これは、浅井氏が当時希少な存在であった石工を使うことができる強い力を持っていたことを表しています。

小谷城の戦い

小谷城は戦国五大山城といわれるほどの堅城でしたが、清水谷を隔てた向かいの尾根上にある小谷山の最高地点・大嶽を奪われてしまえば、そこから簡単に攻略されてしまうという弱点も持っていました。
ただ、このような攻撃を行うには大軍が必要で、浅井氏の宿敵であった六角氏にはそのような大軍を編成する力はなかったのです。

しかし、織田信長と敵対してしまったことで、小谷城の危機が現実のものとなってしまいます。
1572年、織田信長が侵攻してくると、小谷城の西にある山本山城を守る阿閉氏が信長に投降し、織田軍は小谷城の北にある山田山を占領し小谷城は完全に包囲されることになりました。

救援に来ていた朝倉氏が不利を悟って退却を始めたところを織田軍に攻撃され、朝倉氏は滅亡してしまいます。
孤立無援となった小谷城は1573年に落城してしまうことになるのです。

現在、小谷城は国の史跡指定を受けており、石垣や土塁、曲輪などが遺構として残っています。
戦国のドラマを感じることができる小谷城はお城好きなら一度は訪れたい城といえるのではないでしょうか。