篠山城の特徴 縄張りや石垣について 交通アクセスも

篠山城は兵庫県丹波篠山市にある城です。
JR福知山線篠山口駅からバスで17分のところにあります。

篠山城は1609年、築城の名手として名高い藤堂高虎の縄張りによって15か国20大名の天下普請によって築かれました。
初代の城主は徳川家康の側室の子であるといわれる松平康重です。

篠山城は約400メートル四方の正方形の形をした城であり、三の丸の外、三方向に設置された角馬出が特徴です。

高い建物がほとんどなかった篠山城

篠山城が築かれた理由は、大坂の豊臣氏に対する備えであったといわれています。
もしも西国の豊臣氏恩顧の大名が挙兵した場合、京都に攻め入る、あるいは大坂に入るといった行動を阻止するため、山陰道と播磨街道が交差する交通の要衝である篠山を押さえておく必要があったと思われます。

このように戦略上重視されていた篠山城でしたが、築かれた当時は天守はおろか、櫓もあまり建てられなかったといわれています。
これは、家康の側近である本多正信の意見であるといわれていますが、その理由として、籠城戦になった場合、天守や櫓といった建物は簡単に取り壊せずに邪魔になるからということであったようです。

この考えは、関ケ原合戦時に伏見城は内通者による放火をきっかけとして落城し、大津城は天守に大筒による砲撃を受けて落城したという経験によるものではないかといわれています。

この時代の籠城戦では、高い櫓からの火縄銃による射撃が効果が高いと考えられていたのですが、篠山城は櫓のほとんどない城として築城されることになったのです。

高い石垣による防御を目指した篠山城

では、どのようにして城を守ろうとしたのかといえば、石垣を高くして攻城側に対する障害物としているのです。
石垣が高ければ高い櫓と同じような効果が期待できます。
つまり、篠山城については櫓はあまり必要なかったともいえるでしょう。

高い石垣の上からの火縄銃による射撃で敵に打撃を与え、その後に馬出から出撃して敵の側面を突く、というのが篠山城の籠城戦時の考え方であったといわれています。

見どころが多い篠山城

篠山城は藤堂高虎の縄張りの、高い石垣、方形の曲輪という特徴がはっきりと現れた城でもあります。
藤堂高虎が縄張りを行った城は、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城・二条城などがありますが、なかでも篠山城はその全体像を現在でも目にすることができる貴重な存在といえるでしょう。

現在、篠山城では二の丸大書院の建物が復元されており、さらに城周辺の整備も進められています。
日本100名城にも選定されている篠山城は城好きならばぜひ訪れてみたい城ではないでしょうか。