名胡桃城の歴史や縄張り 交通アクセスも

名胡桃城は群馬県利根郡みなかみ町に城跡が残ります。
JR東日本上越線後閑駅、あるいは上越新幹線上毛高原駅が最寄り駅となり、それぞれの駅からタクシーを利用して7分程度の距離にあります。

真田氏時代の名胡桃城

名胡桃城は沼田氏が1492年に築いたという伝承がありますが、史料にその存在が登場するのは1579年で、築いたのは真田昌幸です。

沼田市にある沼田城近辺は、名胡桃城築城当時、小田原の後北条氏の支配地でした。
上杉謙信の跡目争いである「御館の乱」の際に、味方する見返りとして上杉景勝が武田勝頼に東上野の上杉領を譲ったことで沼田城は武田氏の攻撃にさらされることとなり、ついには武田氏に奪われてしまいます。

この時に実際に沼田城を奪ったのが真田昌幸で、名胡桃城はその前線基地として利用されました。

武田氏滅亡後、真田昌幸は、徳川家康、上杉景勝、そして豊臣秀吉と主家を変えることになります。
この間、真田氏と後北条氏は沼田城を巡って紛争を続けていましたが、豊臣秀吉による裁定で沼田城は後北条氏のものとなります。

しかし、名胡桃城は真田氏のものであり、信濃や越後から侵攻する軍勢の集結地点となる名胡桃城がある限り、沼田城は危機にさらされることとなりました。

この当時の名胡桃城の縄張りとしては本郭、二の郭、般若郭、三の郭などがあり、三の郭の前面には丸馬出が設置されていました。
建物は掘建柱からなる粗末なもので、合戦のための城という位置づけであったと思われます。

後北条氏時代の名胡桃城

秀吉との関係が悪化していた後北条氏は危機感を募らせ、ついに1589年、名胡桃城を攻撃して奪取してしまいます。
このことを大名たちの私闘を禁止した「惣無事令」の違反であるとして、豊臣秀吉は後北条氏の小田原城を攻撃することになるのです。

後北条氏が奪取した後、名胡桃城には、丸馬出を角馬出に改修、馬出の入り口を1ヵ所にして土橋から木橋に変更、三の郭の内部に溝が掘られる、実質的には本丸であった二の郭の周囲に土塁を築く、などの豊臣方との合戦に備えた改修が行われました。

このように守りを固めていたにもかかわらず、名胡桃城で合戦が行われることはありませんでした。
豊臣方は整備されて大軍の通行に便利な碓氷峠を越えて侵攻したからです。

小田原城が落城すると沼田城は真田氏のものとなり、合戦のためだけの存在であった名胡桃城はその役目を終えて廃城となりました。

沼田城と合わせて訪れたい名胡桃城

現在、名胡桃城は群馬県指定史跡に指定されており、また続日本100名城にも選定されています。

沼田市には吹割の滝などの観光名所もありますし、沼田城と合わせて歴史の舞台となった名胡桃城を訪ねてみてはいかがでしょうか。