小田原城の歴史や歴代城主 交通アクセス情報も

2019年12月7日

JR東海道線・小田急小田原線の小田原駅が最寄り駅の小田原城は、後北条氏の本拠だったことに加え、豊臣秀吉の天下統一の仕上げである小田原征伐の舞台となったことで全国的に有名な城です。

小田原城の築城

小田原城が城として築かれたのは、1418年、鎌倉公方足利持氏の配下であった大森頼春によってであるといわれています。

この後、1496年に大森藤頼は相模国守護であった上杉朝良によって小田原城を攻撃され、以後は伊勢盛時(北条早雲)が小田原城を支配することになります。

後北条氏の居城として整備される

盛時の子である氏綱は姓を「北条」と改め、小田原城を居城とします。
この後、小田原城は後北条氏四代に渡る本拠として拡張整備されることになります。
まず、氏綱の時代に大森氏時代の城があった八幡山から現在の本丸の位置まで城の中心が移されました。

その後、氏綱の子である氏康の時代に三の丸などが作られ、次の当主である氏政の時代に土塁や堀で城下町全体を防御する惣構が築かれました。
この惣構は総延長9kmもあり、当時最大の規模を誇ったといわれています。

豊臣秀吉の攻撃を受ける

その堅い守りから上杉謙信や武田信玄の攻撃を退けた小田原城でしたが、北条氏政が豊臣秀吉への臣従を拒んだことから全国の大名20万の大軍に包囲されることになります。
3カ月余りの籠城戦の後、北条氏は豊臣秀吉に降伏し、ついに小田原城は開城します。

北条氏は敗北しましたが、小田原城の難攻不落ぶりに感嘆した秀吉は自身の大坂城に惣構を取り入れ、その後、全国の城で大規模な惣構が築かれるようになりました。

大久保氏が城主の時代

北条氏の領地を受け継いだ徳川家康は、小田原城に大久保忠世を配置しました。
これは豊臣方から攻められた場合に、関東の防御にとって重要な地点である小田原を信頼する譜代の家臣に任せる必要があったためといわれます。

しかし、1614年、忠世の子である忠隣の時代に豊臣氏への内通の嫌疑をかけられ、大久保氏は所領没収となってしまいます。
この時、家康の命令によって小田原城の二の丸と三の丸の櫓、城門、惣構の門などが破壊されています。

稲葉氏が城主の時代

その後、1632年、小田原城には徳川家光の乳母を務めた春日局の子である稲葉正勝が下野真岡から転封されてきます。

正勝は幕府の支援を受けて小田原城を修築し、正勝の子の正則の時代に工事が完成します。
現在残る小田原城はこの稲葉氏の時代に造られたものです。

再び大久保氏が城主に

その後、1686年に稲葉氏が越後高田に移ると、大久保忠朝が小田原城に入ります。
その後は幕末まで大久保氏が小田原城の城主となりました。

江戸時代を通して小田原城は何度か地震による被害を受けています。
1703年の地震では天守や本丸御殿、二の丸御殿、櫓、門などが焼失したり倒壊したりしました。
しかし、幕府にとっての重要地点ということで、災害による被害の後は幕府の支援によって修築がなされました。

そして、1870年、城主大久保忠良は明治新政府に小田原城の廃城を願い出ます。
これは新政府による廃城令が出る3年前のことで、小田原城の天守や櫓は解体されてしまうこととなりました。