岩櫃城の歴史と城主 武田勝頼との関係は

岩櫃城は群馬県吾妻郡東吾妻町にある城です。

岩櫃城は1405年、斎藤憲行によって築かれたとされています。
そして、子孫である斎藤憲広は西にある鎌原城を攻略しますが、城主である鎌原氏は信濃に逃れ一族である真田幸隆を頼ります。

このことから、真田氏の主君である武田信玄による上野への侵攻が開始されます。

真田氏が岩櫃城の城主に

真田氏を主体とした武田軍によって、1562年に鎌原城は奪還され、斎藤氏も越後の上杉氏の助けを求めて抵抗しますが、1563年、岩櫃城は奪われてしまいます。
そして、その2年後に斎藤氏も滅亡してしまいます。

1580年、武田勝頼の時代に、武田氏は上野の沼田城を後北条氏から奪います。
武田軍の主体であったのは真田氏で、以後、信濃から上野に及ぶ真田氏の勢力範囲が形成され、岩櫃城はその地理的中心となります。

1582年の武田氏滅亡時に、真田昌幸は岩櫃城に勝頼を迎え入れて織田信長に抵抗しようとしますが、結局実現しませんでした。

そして、岩櫃城は武田氏滅亡後の真田氏の作戦拠点として、徳川氏や北条氏の侵攻から領地を守るために利用されることとなるのです。

岩櫃城の特徴

岩櫃城は吾妻川が蛇行する部分の左岸にある岩櫃山の中腹に築かれました。
岩櫃山は特徴的な外見を持つ山なので、古来より信仰の対象となっていたことが考えられ、そこに城を築くことは地域の支配のために大きな意味があったものと考えられます。

岩櫃山は岩山であり、山頂付近は城を築ける状態ではありません。
そのため、戦いの際に不利となることがわかっていながら、山の中腹に城を築いたものと思われます。
城の中心部の位置は、斎藤氏の時代から変わることはなかったようです。

そして、岩櫃城には主郭部分の南側に放射状の竪堀が掘られています。
これは武田氏によって築かれた山城によく見られるもので、岩櫃城が武田氏によって改修されたことを表すものと思われます。

また、岩櫃城には主郭部の東下の尾根上に家臣屋敷を中心とする城下町が防御を固めた状態で存在していました。
これは岩櫃城が沼田と上田という、真田氏の拠点を結ぶ中間地点にあったため、物資を集積したり家臣を集住させたりする必要があったものと思われます。

戦国時代の城下町の遺構はほかにもありますが、岩櫃城のような山の上で防御が施されたものは貴重なものです。

岩櫃城には北東の観音山に柳沢城、岩櫃山の南側の山腹に郷原城という支城も築かれていました。
これは、岩櫃城の弱点である主郭部の北側の谷、そして西側の尾根続きの防御を補うためと考えられています。

このように真田氏が生き残るために利用されていた堅城の岩櫃城でしたが、1616年に徳川幕府が発した「一国一城令」により廃城となり現在に至ります。

岩櫃城は続日本100名城に選定され、2019年には国の史跡に指定されています。
戦国の世で生き残った真田氏のドラマに思いを馳せることができる岩櫃城は、城好きなら一度は訪れてみたい城といえるでしょう。