伏見城の歴史や場所・戦いについて 交通アクセス情報も

豊臣秀吉が生涯を終えた城として知られる伏見城は1594年、伏見の指月に築かれました。
この伏見城の築城と同時に宇治川の流れを変え、1941年まで存在した巨椋池に街道を新設するという大規模な土木工事が行われています。

そのほか、同時期には巨椋池に淀堤、槙島堤、小倉堤という堤防が築かれ、それまであった淀城の破却が行われました。
これは巨椋池に3カ所あった湊を伏見に統一し、その交通の要衝を抑えるという政治的な意味もあったと思われます。

自らの本拠地である大坂と甥の関白・秀次がいる京都を結ぶ中間地点に築かれた伏見城は、秀吉の権力を象徴するシンボルとしての存在でした。

木幡山に新たに築かれた伏見城の特徴

しかし1596年に発生した大地震によって伏見城は倒壊してしまいます。
このため、場所を移し伏見の木幡山に新たに城が築かれることになります。

木幡丘陵に築かれた二代目伏見城の特徴は、火縄銃主体となっていた当時の戦いに合わせるため、元からある地形を利用しない構造にあります。

その特徴がはっきりと現れているのが北側に作られた濠でした。
北側の濠は幅が100メートルもあり、当時の火縄銃では射程外となっていました。
守る側は銃を発射しなくても城を守れますが、攻める側は銃の射程距離まで近づく必要がありますから、この濠は攻める側を圧倒的に不利にすることができたのです。

また、濠がない西側の治部少丸は石垣が直線的ではなく短い距離でいくつも折れ曲がるように作られています。
これは近づく敵に対して十字砲火を浴びせるための工夫でした。

また、搦手門側は本丸に向かう道が空堀の底に作られ、本丸に向かおうとする敵は両側の弾正丸と松の丸、そして正面の出丸から激しい攻撃を受けることになってしまいます。

このように伏見城は地形の制約を受けることなく、さまざまな防御を行うことが可能となっている城で、その考え方は現代の戦術に通じるものがあるともいわれています。

伏見城で行われた戦い

1600年、伏見城は関ケ原の合戦の前哨戦の舞台となります。
攻撃側4万に対し、鳥居元忠が指揮する守備兵は1,600名でした。

しかし、圧倒的な兵力差にもかかわらず、14日もの間落城せず、伏見城はその堅城ぶりを証明したのでした。

関ケ原の合戦後、伏見城は徳川家康によって再建され、家康は伏見城で征夷大将軍の宣下を受けています。
そして、大坂夏の陣の後、1619年に伏見城は取り壊されることとなりました。

現在の伏見城の跡地

現在、伏見城の本丸跡は明治天皇陵となっており、立ち入りは禁止されています。
また、御花畑山荘跡には鉄筋コンクリートによる模擬天守が建てられていますが、内部は非公開となっています。

なお、伏見城の櫓などの多くの建物は、福山城など各地の城や寺院などに移築されて現存しているものも多くあります。

伏見城跡の最寄り駅はJR西日本奈良線桃山駅、あるいは近鉄京都線近鉄丹波橋駅、京阪本線丹波橋駅となっています。