岡山城の歴代城主や歴史 交通アクセスや岡山後楽園の情報も

2019年12月8日

岡山城は岡山県岡山市にある城です。
JR山陽本線岡山駅から路面電車「東山行き」に乗り、「城下」で下車して徒歩10分で到着します。

宇喜多氏が城主の時代に現在の規模に

最初にこの地に城が築かれたのは1346年から1369年ごろのことで、上神高直によるものといわれており、その当時は石山城と呼ばれていたようです。

その後、戦国時代になると金光氏が居城としていましたが、1570年、金光宗高は宇喜多直家に騙し討ちにされ、石山城は直家に奪われることとなります。
直家は備前、美作に加え播磨、備中の一部を支配する大名となりましたが、中国地方に侵攻してきた織田信長に従うことになります。

直家が病によって息を引き取った後、その子・宇喜多秀家は豊臣秀吉の養子となり、豊臣政権下では五大老のひとりとなるほどの存在となります。
この秀家の時代に石山城に隣接する岡山を本丸として城が拡張され、以後、岡山城と呼ばれることとなりました。

岡山城は岡山市内を南北に流れる旭川を天然の外堀としており、旭川の湾曲部分の内側を本丸とする構造になっています。
天守は安土城を模して造られたといわれる変則五角形入母屋造りです。
その天守の外見から「烏城」という別名もあります。

この岡山城天守は1945年まで建造された当時の姿のまま存在していましたが、1945年6月の空襲によって惜しくも焼失してしまいました。
現在の天守は鉄筋コンクリートによる復元で、内部は歴史博物館となっています。

岡山城を現在残る規模にした宇喜多秀家でしたが、豊臣秀吉の没後に関ケ原の合戦が起こると、石田三成とともに西軍の主力となります。
西軍に所属した大名の中で実際に戦闘に参加したのはごく一部だといわれており、その中でも秀家は最前線で奮戦しますが、小早川秀秋の裏切りによって敗戦してしまいます。

小早川秀秋が城主に

八丈島に流罪となった秀家に代わって、岡山城には小早川秀秋が入ることとなります。
秀秋は三の丸の外にさらに外堀を作り、また、備前国内の城から櫓などの建築物を移築して岡山城を強化しました。

小早川秀秋は関ケ原の合戦の2年後にわずか21歳で亡くなり、嫡子がいなかったため小早川家は廃絶となりました。

池田氏が城主となり明治に

その後、池田忠継が岡山城に入り、忠継が亡くなった後は弟の忠雄が岡山城主となります。
忠雄の子の光仲の時代に、幕府の命によって同じ池田家の鳥取城主・池田光政と領地を交換することとなります。

以後は、光政の子孫が幕末まで岡山城主を務めることになりました。

池田氏によって造られた後楽園

光政の子である池田綱政は1686年から15年を費やして庭園「後楽園」を造営します。
後楽園は庭園の形をとっていますが、実は岡山城の搦手の防衛拠点とする狙いがあったともいわれています。

ちなみに江戸時代、「後楽園」は、「御後園」、あるいは「菜園場」などと呼ばれており、「後楽園」と呼ばれるようになったのは明治以降といわれています。
これは、岡山「後楽園」が造られた当時、すでに江戸に水戸徳川家の「後楽園」があったため、同じ名前を付けるわけにはいかなかったからだといわれています。

日本三名園のひとつといわれる後楽園と合わせて、さまざまな歴史のドラマが繰り広げられた岡山城を訪ねてみてはいかがでしょうか。