岡城の歴史や歴代城主 交通アクセスや歩き方は?

2019年12月9日

現在も歌い継がれる名曲「荒城の月」の作曲者である滝廉太郎が、作曲の際にイメージしたと伝えられるのが大分県竹田市にある岡城です。
最寄り駅はJR豊肥本線の豊後竹田駅になります。

岡城の歴史と歴代城主

岡城は鎌倉時代に緒方氏の居城として築かれました。
その後、豊後国守護の大友氏の家臣である志賀氏の居城となり、戦国時代には薩摩の島津氏との激しい戦の舞台ともなりました。

その後、1593年に大友義統が豊臣秀吉によって改易されると、播磨国三木城から中川秀成が入城します。
ちなみに中川秀成は賤ヶ岳の戦いで命を落とした中川清秀の次男です。

この中川秀成が志賀氏の城を大改修し、岡城を現在も残る姿にしました。
以後、中川氏13代が幕末まで岡城の城主を務めることになります。

岡城は阿蘇山を源とする白滝川と稲葉川の間にある標高325mの天神山に築かれています。
天神山は断崖絶壁に囲まれた自然の要害であり、この複雑な地形を取り入れたうえに堅固な石垣で防御を固めた岡城は難攻不落の堅城だといえるでしょう。

岡城の歩き方

岡城の歩き方の順路としては、大手道の石段を上るところから始めます。
この大手道の崖側には石塀が設置されていて、石塀の上には「カマボコ石」という上部が半円形になっている石が置かれています。
江戸時代以前はこの石の上にさらに塀が建てられていたと思われます。

大手道の坂を上りきると大手門の跡があります。
志賀氏の居城だった時代は、現在の城の西側部分が本丸であり、現在の下原門が大手門となっていました。
現在の大手門に建物はなく、門の礎石と門の扉についていた戸車のレールの役割を果たしていた石などが残っているだけです。

大手門を過ぎると本丸方向、家老屋敷方向、西の丸方向と三方向への道があります。
本丸への道を進むと桜馬場という幅が広い直線的な場所があります。
この左側には家老屋敷(但見屋敷)と城代屋敷の跡があり、ふたつの屋敷の間には狭い道があります。
この道の突きあたりにある籾蔵跡からは本丸跡の高く美しい石垣がよく見え、絶好の撮影スポットとなっています。

さらに道を進むと三の丸跡、二の丸跡へと至ります。
二の丸跡には滝廉太郎の像があり、また、73mもの深さがある井戸も残っています。

三の丸と二の丸よりも一段高くなっている場所が本丸です。
本丸の南西の隅には天守の代わりとなっていた御三階櫓が建てられていました。
これは望楼型天守のような古い形式のものであり、1771年に一度火災で失われましたが、その後再建されています。

本丸下にある東中仕切門を通って少し行くと、1684年に作られた中川氏の祖先を祀る御廟跡、荘嶽社・三楽亭の跡があり、つきあたりには下原門跡があります。

大手門の西側にある西の丸は岡城の中で最大の平地です。
ここには1663年に西の丸御殿が建てられ、政庁的な役割を果たしていました。

岡城は城のある場所まで登るのが一苦労で、また城域が広いため見て回るのも大変ですが、見事な石垣をはじめ見所は多く、また、城からの眺めも素晴らしいものがあります。
お城好きならぜひ訪れたい城だといえるでしょう。